蚩尤とは?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
蚩尤。漢代の石刻画

蚩尤(しゆう、Chihyu。または蚩蚘とも書く。)は、古代中国神話に登場する神であり、三皇五帝のうちの一人、炎帝神農氏の子孫とされている。兵器の発明者とされ、霧をあやつる力があったとも言われている。

獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体にの頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどとされる。路史によると、が姓とされる。

その姿は『述異記』巻上によると、

「銅の頭に鉄の額、鉄石を食し、……人の身体、牛の蹄、四つの目、六つの手を持つ。 ……秦漢の時代の説によれば、蚩尤氏の耳鬢(頬の髪、もみあげのあたり)は剣や戟のようで、頭には角を持つ」

述異記』巻上には「四目、六手」という姿のほかに、

「山西の太原地方に現れた蚩尤は、亀足、蛇首であった」

という別の説も載せている。

漢の時代に作られた書物『竜魚河図』では、

「獣の体をして人語を解し、銅の頭に鉄の額を持ち、砂や小石を食していた」

また、古い占いの書『帰蔵』には、

「八肱(八つのひじ)、八趾(八つの足)、疏首(別れた首?)」

『山海経』西山経に出てくる兵乱を起こす神は、「蚩尤」の名こそ出てこないものの、

「天神あり、その状態は牛の如くで八つの足、二つの首、馬の尾、その声は勃皇(未詳)のよう。これが現れるとその邑に戦がおこる。」

とあって、おそらく蚩尤のことと思われ、蚩尤が古くは天神と呼ばれていたことがうかがえる。

蚩尤は、砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした八十一人(一説に七十二人)の兄弟がいて、彼らと共に、武器をつくって天下を横行していた。

まだ天子となる前の公孫軒轅(黄帝)は、他の横暴な諸侯は征伐したものの、蚩尤だけは討伐することができなかった。やがて黄帝が即位するに及んで、蚩尤との対決が本格化した。決戦は涿鹿(涿鹿の戦い。『史記』五帝本紀)とも、冀州の野(『山海経』大荒北経)とも言われている。兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、濃霧を巻き起こし、敵を苦しめ、戦いははじめ蚩尤の側が優勢であった。『竜魚河図』には、

「仁義に篤い黄帝でも、蚩尤を押さえることができなかった」

とある。

山海経』大荒北経では、

「蚩尤は兵器をつくり、黄帝への攻撃を開始した。それに対して黄帝は応竜に命じて蚩尤を冀州の野において迎撃させた。応竜とは、竜の中でも翼のあるものを言い、雨を降らせる力を持つものである。ところが蚩尤はこれに対抗して、風伯(風の神)と雨師(雨の神)をまねき、暴風雨をほしいままにした。そこで黄帝は、自分の娘である魃(妭とも書く)を天上から呼び寄せた。日照りの神である魃の力によって風伯・雨師の力は封じられ、ついに蚩尤も討ちとられた。」

『竜魚河図』の説話では、

「天帝に遣わされた玄女から「兵信神符」という呪符を渡された」

ことがきっかけで勝利したとある。

黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれている。処刑された蚩尤を葬った塚は山東の寿張とも同じく山東の東平陸にあるとも言われ、一説には一方に頭と胴体、もう一方に手足を葬ってあるとも言われている。

『述異記』巻上によれば、

「冀州(河北)の人が銅鉄でできたような髑髏を掘り出し、これが蚩尤の骨だとされた。その歯の長さは2寸、固くて砕くことができなかった。」

という。

また、山西の解州には塩池という場所があり、特産の河東塩を産出しているが、これは赤みをおびており、蚩尤が死んだ時の血が化したものだと伝えられている。

この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(ミャオ族の祖先といわれる。)、巨体の夸父族だった。

最後に捕らえられた蚩尤は、殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。

赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされる。

蚩尤の支配下にあった民衆は、蚩尤が討伐された後、その善良なものは鄒屠の地へ、凶悪な者たちは有北(北の寒冷な不毛の地)へと移住させられた。そのうち、鄒屠の地へ移住した者たちは鄒屠氏と呼ばれ、後に鄒氏と屠氏に別れたと言う。前秦・王嘉撰『拾遺記』によれば、帝嚳高辛氏の后は、鄒屠氏の出身だったと言う。

戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗となった。三苗は現在の中国を中心に、その周囲の東南アジア諸国、また一部は米国に亡命・移住した、ミャオ族である。黄帝は敵討ちを心配して三苗を皆殺しにしようとしたが、南方の民を根絶やしにできず、その後、三苗は歴代の中国原の覇王たちを執拗に悩ます手強い敵となった。楚は三苗の貴族階級が建国した国と言われている。

『国語』楚語とその注によると、蚩尤を殺した黄帝の子である少昊金天氏の天下の衰えを見て、反乱を起こし、

「少昊の衰えた時に反乱を起こした九黎(黎氏の九人)は「蚩尤の徒」であった」

という。

一方、負けてしまったために化物とされてしまったが、蚩尤が帝王神であったと記す記録も残っている。『逸周書』嘗麦解に記された伝説は、次の通り。

「蚩尤は赤帝に命じられて少昊におり、四方に臨み百行を司った」

秦の時代までには、蚩尤は五兵(五種類の兵器)の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていた。司馬遷『史記』封禅書には、蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられている。

「天下を統一した始皇帝は泰山で封禅をおこなった後、東の海岸地方で祭祀をおこなった八神の一つに兵主の神を蚩尤の塚で祭り、また漢の高祖・劉邦は、挙兵した時に蚩尤をまつったという。」

戦争で必要となる戦斧弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。

漢代・作者不詳『竜魚河図』には、伝説として、蚩尤が神として祭られるようになった経緯を、次のように記している。

「……蚩尤が死んだ後、天下は再びあちこちの国で騒動が起こる不穏な日々が続いた。そこで黄帝は蚩尤の姿を描いて示し、これで天下の不心得なものを威嚇した。この絵を見た世の人々は、みなあの恐ろしい蚩尤がまた生き返って現れたと思い、どの国々も蚩尤の絵にひれ伏した。」

兵主神の祭りは、のちに日本にも伝えられた。

関連項目

 | この「蚩尤」は、神話に関連した書きかけ項目です。この記事をこの記事を加筆・訂正等してくださる協力者を求めています。(PJ:神話/P:神話伝承)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2012/05/14 21:41

蚩尤スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「蚩尤」のスレッドを作成する
このページ
友達に教える
URLをコピー

占い種別一覧

血液型占い
血液型占い(けつえきがたうらない)は、ABO式血液型を属性として占う、日本特有の占い方法のひとつ。 現存する占いのうち最も属性の数が少なく、短時間または少ないページですべての属性についての解説ができることから、テレビ番組や雑誌の占いコーナーでよく用いられる。
血液型占いを見る
粥占
粥占(かゆうら)とは、粥を用いて1年の吉凶を占う年占である。 各地の神社で祭礼として行われる。多くは小正月に神にあずき粥を献ずるときに行われ、占われる内容はその年の天候や作物の豊凶などである。
粥占を見る
紫微斗数
紫微斗数(しび-とすう)は占いの一種。 唐末から宋の時代にかけての有名な仙人であった陳希夷が創始したと伝えられている。 紫微斗数の名前は、北極星である紫微星[2]を主とする星々から運命(=数)を量る枡(=斗)を意味している。
紫微斗数を見る
太占
太占(ふとまに)とは、古代日本において行われた獣骨(主に鹿の骨)を用いた卜占のひとつ。鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)とも称される。
太占を見る
方位神
方位神(ほういじん)とは、九星術から生じたもので、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられた神である。 方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って各方位を遊行する。吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位という。
方位神を見る
ダウジング
ダウジング(Dowsing)は、地下水や貴金属の鉱脈など隠れた物を、棒や振り子などの装置の動きによって見つける手法。振り子を使う場合は、ラジエスセシア (radiesthesia)とも呼ぶ。
ダウジングを見る
占いwikiへ戻る
(C)占いwiki.