周易(しゅうえき)は、周王朝時代に成立した、中国で最初の書物とされ、卜筮のために書かれた書物とも、そうではないとも言う。しかし、本当に最初の書物であったとすれば、初めから何らかの目的をもった専門書と考えるよりは、あれこれと記録しているうちに卜筮に使えるようになった、と考えるほうがむしろ妥当である。台湾の邵詩譚や徐世大などは、周易の本文は卜筮のために書かれたものではないとしている。
「易」の意味は、変化、蜥蜴、日月、など、昔から諸説あるが、台湾の徐世大などは、地名、つまり現代の河北省易県など易水流域の意味とする。
周易は易経と混同されやすいが、周易の原文に十翼と呼ばれる附文を加えたものを易経といい、本来の周易とは区別される。かつて十翼は孔子の作と伝説的に言われてきたが、十翼の文体は、孔子の時代の文体よりはるかに新しく、漢代以降の文体であることは、現代の学者の認めるところである。古くは北宋の欧陽脩が既に孔子説を否定している。
前漢の後期には、儒教的な易解釈に飽き足らず、易卦による占卜という本質を守ってきた隠士たちの流れが、焦延寿(『焦氏易林』)によって発展せられ、その弟子の京房により、十二支の納甲(配置)という形で開花する。これは易卦理論と五行理論の融合であり、京房易、卜易、漢易などと呼ばれるようになる。なお、日本では、断易、五行易などと呼ばれている。
周易の読み方は、十翼が付け加えられて以来、易経として儒教的な解釈がなされてきたが、殷墟の発掘以後、董作賓らによる甲骨文や金石文の解釈が進み、周易に使われている漢字の意味は、説文解字にあるような秦・漢代以後の意味とは大幅に違うことが判明してきている。
なかでも、台湾の徐世大は、周易全体を甲骨文の字義で解釈しなおすとともに、周易の作者は晋の人であり、密命を受けて狄地へ行く途中で途に迷い、誤って易(現在の河北省易県あたり)で囚われの身となり、牢獄生活のなかで周易を書き始めたとする。
台湾出身の著述家張明澄によれば、徐世大ら台湾の研究家たちは、周易の乾卦の解釈を次のように考えているという(張明澄『間違いだらけの漢文』久保書店、1971年)。
乾 元、亨、利、貞。 | 遣使はとても通常なることであり、恒心がなければいけない。以上が、1971年当時、台湾で最も妥当だとされていた解釈だという。
徐世大以後も、甲骨文や金石文による周易解釈の研究は発展し、台湾出身の著述家張明澄はさらに新しい解釈を公開している(日本員林学会『周易の真実』1998年。2008年に改訂版)。
乾 元享利、貞。 | 成長発展中の我国(周王朝)について、どうしたら良いのか、収穫物を大いに供えて占ってみましょう。かつての儒教的な読み方はもちろん、徐世大らの解釈ともかなり異なるが、これが、現在の台湾の研究者の間で最も妥当とされる解釈だという。
周易の原文は卦辞と爻辞と呼ばれる文章からなり、易卦や卦爻と呼ばれる記号が付されている。
「易卦」の記号は「爻」を重ねたものであり、「爻」には陽と陰がある。このうち、「―」が陽爻、「--」が陰爻を表し、「爻」を3つ重ねたものを「八卦」、6つ重ねたものを「易卦」または「六十四卦」という。
陽爻「―」によって表すのは、気体、液体、光、熱、機能、など、目に見えないものや、触れても抵抗感や実質感の乏しいものであり、陰爻「--」の表すのは、土のような固体、つまり目に見えて、触れると抵抗や実質感のあるものである。次に八卦の図形を挙げる。
また、易卦はもともと二進法で表す数字であるという説があり、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。
| 0 | 000易卦が二進法の数字であると喝破したのはライプニッツであり、宋易の円図、方図の並び方から解読し、「坤」→「剥」→「比」から「乾」までに0から63までの数をあてはめたという。
ただし、円図方図では、爻の変化を上爻から順番に行っており、上図のように初爻から上爻に向かって順番に変化させたほうが、初爻から順に立卦する易の性格上合理的である。
張明澄著『周易の真実』(1998年日本員林学会、2008年に改訂版)では、「坤」→「復」→「師」から「乾」へという順序に易卦を並び替えており、「乾、坤」から始まり「未済」で終わる『易経』の順序には、なんら法則性も根拠もないとしている。
漢代から宋代にかけての儒易の系譜は経典儒と呼ばれる。四書五経を重んじ、礼儀を第一に尊ぶ規範としての学問であり、『易経』は占卜の書とはいっても、もっぱら儒教の倫理を説き、儒家としての正しい処世を求めるため、経文の解釈はもっぱら十翼一辺倒となり、発展も見られなかった。しかし、宋代から明代にかけて、儒易の系譜は、黄渠学、朱子学、陽明学へと連なる、理学という学問体系を形成した。
まず、北宋時代に入ると、易卦を数理的に解釈する、象数易というものが誕生した。象数家の系譜は、円図・方図を作ったとされる陳希夷に始まり、穆修、李挺之、そして『皇極経世』を編んだ邵康節などの人脈を生んだ。
円図・方図は、現代に続く風水の系譜のなかでは主流となっている元合派、つまり三元派や三合派と呼ばれるグループの理論的な拠り所である。
これに対して、五術のなかでも成立年代が古く、宋以前からある「三式」即ち太乙神数、奇門遁甲、六壬神課などは、円図・方図を基盤としないから、元合派の成立は宋の象数易以後であることは論を俟たない。
宋代の経典儒としては、『太極図説』を編み「後天優勢、以学為志」を説いた周濂渓(1017-1073)、「気即理」を説き「王渠学」を立てた張王渠(1020-1077)、そして「性即理」「天理」を説いた程明道(1032-1085)と「心即理」「理気二元」を説いた程伊川(1033-1107)の兄弟が「理」について異論を唱え、それぞれの学派を形成した。
程明道の系統は、南宋の朱元晦(1130-1200)へと引き継がれ「朱子学」となった。程伊川の系統は、南宋の陸象山(1139-1192)へと引き継がれ、さらに明の王陽明(1492-1528)によって「陽明学」が打ち立てられ、さらに王龍渓(1498-1538)、「厚黒学」の李卓吾(1527-1602)と続く。
宋・明の「理学」にあっては、「気」と「理」のあり方がもっとも問われるところである。「気」とは自然、つまり先天的に存在する数理のようなロジックであり、経験則と言い換えることもでき、「格物致知」という「大学」以来の理念によって現出される。しかし「理」とは倫理であり、もともと人間に生まれつき備わるものなのか、学ぶことによって後天的に得るものなのか、あるいは行いによって初めて真実となるのか、などが争われたのである。
宋の象数易以前は、風水を観察する者にとって「気」を読むこと、つまり経験則だけが頼りであり、「三式」などの理論も、もっぱら「記号類型」という経験則であり、「理」と言えるような根拠は持ち得なかったのである。 つまり現代の風水信奉者が「非科学的」といって軽蔑されることに耐えられなくなって、磁気地理学などといった「疑似科学」に腐心するように、当時の風水師たちが「理気」という言葉に陶酔していったのも無理からぬことではある。しかしそれは「腐儒」という堕落と隣り合わせであったことも否めなかった。
時間や方位など、あらゆる物事に易卦や干支という記号をつけて分類した上で、共通するものから規則性を見出し、次に来るものを予知する、という中国式記号類型学の手法は、「格物致知」という、二千年来中国の学問を支え続けた理念に合致するだけではない。そのような経験を持たない西洋科学から見て否定も肯定もできないし、少なくとも「反科学」とは言えない分野である。
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